場所と物語

平和島巡礼/石神夏希

あるエリアを見るときに、周りを見たい、と思う。実際は周りというか、「境界」を探しに行く感覚。その「エリア」が終わるところまで、突き当りまで行ってみて、輪郭や周縁を探ること。

境界を探すことについては、垂直方向(時間的な層)についてももしかしたらそうで、ある層がどこからどこまでで、次の層はどこから塗り重ねられていったのか。そんな「さかいめ」「裂け目」を見つけることが、フィールドワークなのかな、とふと思った。

だから今日、大田市場で見学者ルートが行き止まりになった時、あっけなかったしハッピーエンドではなかったけど、嫌いじゃなかった。行き止まったおかげで、吉里さんが「エスケープしようぜ」と言ってくれたのもよかった。あれは「裂け目」だったと思う。

「裂け目(さかいめ)」のことを考えていたら、モース博士が貝塚を見つけたときのエピソードを思い出した。といってもつい数日前に知ったのだけれど。モースさんは横浜から新橋に向かって鉄道に乗っている時に、汽車の窓から鉄道建設の工事で切り崩された斜面の中に、貝塚の地層を発見したらしい。

そういうふうに、さまざまな層が貫かれてしまう瞬間、というのが面白いし、好きだ。自分がどこにいるのか、普段より少しはっきりと感じられる気がするから。本当はいつだってあらゆる時間と、あらゆる空間と関わっていることを忘れずにいたい。世界の果てと、自分との距離を正確に感じながら生きていたいから、私は「ばしょもの」をやるのだと思う。実際にそんなこといつも感じながら生きていたら、気が狂ってしまうけどね。

平和観音に手を合わせた後、競艇の場外観覧劇場で、たくさんの観客たちに紛れてレースを眺めながら、ここにかつてあった収容所の暮らしのことを想像してみた。そこで暮らしていた人たちは(それが暮らしといえるものだったかどうかは別として)、こんな日が来ることを想像もしなかっただろう。”あの日”ここに生きていた彼らがもし、”この日”がいつかやってくることを知ったら、それは彼らに救いをもたらすのだろうか?

いちばん好きだった景色は、歩道橋から見下ろした線路と野鳥公園だった。どうしてか分からないけど、私はあの野鳥公園にとても惹かれる。埋立地に雨水がたまって、そこに野鳥の生態系が生まれる、ということ。人間の都合や人工的なわざが生み出してしまう「あってはならないもの」を、命が軽々と飛び越えていくこと。原発事故で人が入れなくなった土地を緑が覆っていく写真を見たときの気持ちに、少し似ている。

BIG FUNのようなデタラメさの中にいると、自分の寂しさをじーっと噛みしめるしかなくなる。それはそんなに悪いことじゃない。これは妄想だけれど、あの施設の中に温泉が通っていることで、空虚な「うわもの」じゃなくて、ちゃんとあの場所に根を張っているような気がする。

けど風呂上がりに銭湯内の御食事処でカルピスソーダを一気飲みしながら、BIG FUNの根っこをしみじみ感じ取れるのは、もしかしたら私が京急沿線に馴染み深く育ったせいもあるかもしれない、と思った。あそこには京急の空気感みたいなものが温泉と一緒に湧き出している。あの雰囲気、どこか京急の駅にそっくりなんだ。

ただ、そもそも人工島の平和島で、温泉は一体どこから汲み上げられているのだろうか?海の底から?平和島ができる前にあそこにあったはずの海を見たい。次は、砂浜があるという海浜公園にも行ってみようと思う。

目的地も決まらないまま、冷たい風の中をかなり必死に歩き続ける東京ステイの人たちの後ろ姿は、フィールドワークというより巡礼みたいだった。