場所と物語

伊勢佐木町に吹く風は/石神夏希

伊勢佐木町を歩いている間、なぜか写真を撮らなかった。岩岡くんがいいカメラを持っていたせいかも、2月の風が冷たくてポケットから手を出したくなかったせいかもしれない。でもなんだか、写真を撮るのが照れくさいような気がしたから。

それはもしかしたら、私がこのまちで曲がりなりにも「自分の場所」といえる空間を持っているせいかもしれない。ここには私の拠点があるんだぜ、自分のまちなんだぜとちょっとばかし先輩風を吹かしたいような気持ちがどこかにあったのかもしれない。とにかく、長いことヨーロッパにいて横浜を訪れるのは20年以上ぶりだという真理子ちゃんに対して、彼女に面白いと言われる前にこのまちは面白い場所なんだぜと教えたくてしょうがなかったのは否めない。それにしても『伊勢佐木町ブルース』なんてベタな歌のことにまで口がすべったのは、まるで下手くそなバスガイドみたいだった。

外国料理屋が多く並ぶ通りで真理子ちゃんが「アジアっぽいですね」と言い、私も「ほんと、アジアみたいだよね」と答え、日本はアジアのはずなのにおかしい。ところで伊勢佐木町(正確にいえば福富町)には「Tokyo Rose」という店がある。フィリピンを中心に東南アジアの雑貨や食材を取り扱う小さな店だ。偶然の一致かもしれないけど「東京ローズ」というのは太平洋戦争中、日本が連合国軍向けに発信していたプロパガンダ・ラジオの女性DJに、米兵たちがつけたあだ名だ。アジア系の店主は日本人ではなさそうだったが、どうしてこの名前にしたんだろう。

大岡川に沿ってカーブを描く吉田町のスナック街(街、というのかなあれは)を眺めながら、バブリーなソープ(泡立った石鹸)や昭和な喫茶店の匂いをかぎながら、イマドキこんな徒歩圏内によくこれだけ映画館が残るよなと思うレトロな映画館の裏口ポスターを盗み見ながら、「へびや」まで行っていろいろな爬虫類やクジラの胎児などのホルモン漬けを恐る恐る眺め、またイセザキモールを駅の方へ戻ってきた。道の真中を歩きながら、さっきThe CAVEで観たばかりの演劇の感想を大声で話し合った。おでんを食べに行くはずが我慢できず途中でたこ焼きを買い、三人でもぐもぐ歩きながらおでん屋へ向かった。

野毛おでんは、私たちが入った直後からあっという間に満席になってしまった。お店のおばちゃんがとても親切で次々とおすすめを教えてくれるので、私たちは何を注文するかひとつも考えなくてよかった。くろぐろと煮染められた大根を箸でほどくようにして口へと運びながら、こんな風に無目的にまちを歩いて馬鹿な話ができる友だちがいて嬉しい、と思った。

私は馬車道で次の観劇の予定があって早めに出なければいけなかったので、ふたりに立ち呑み屋への地図を残しておでん屋を立ち去った。また先輩風を吹かしてしまった。